飢餓作戦のこと
1945年3月27日、第1期作戦として、関門海峡周辺や瀬戸内海西部への機雷投下が開始された。第1期作戦は沖縄戦と連動したもので、呉軍港や宇品港から日本軍の救援部隊が沖縄に向かうのを妨害する目的があった。27日夜に磁気機雷中心の約1350個が投下された。驚いた日本側は関門海峡を2日間の通航禁止として掃海を行ったが、アメリカ軍は30日夜にも450個の追加投下を行った。これらの機雷により、4月6日までに8隻の500総トン級以上の船が沈没し、5月2日までには沈没19隻、損傷39隻に上った。
日本軍も関門海峡の防衛は重視していた。日本海軍は関門海峡・対馬海峡の通商保護を主任務とする第7艦隊を新設して掃海を行わせるとともに、佐伯海軍航空隊の一部でB-29の迎撃に努めた。日本陸軍も小月飛行場に防空戦闘機部隊を配置するとともに、後には大阪市周辺から高射砲部隊を移駐させた。しかし、夜間に進入するB-29の迎撃はレーダーの不備な日本軍には困難で、機雷投下を阻止するには遠く及ばなかった。
5月3日~12日には第2期作戦が実施された。攻撃目標は関門海峡に加えて、東京港・大阪港・神戸港・名古屋港などの太平洋岸・瀬戸内海の主要港とされた。第2期作戦では1422個の機雷が使用され、中でも水圧機雷の投入が威力を発揮した。関門海峡は大型船の通航が不可能となり、それまで比較的機能していた大阪港・神戸港も使用不能となった。小型船でも安全ではなく、関門海峡通過時には平均で1/3が沈没した。
5月13日~6月6日の第3期作戦では、北部九州を中心に日本海側の諸港が標的とされた。関門海峡への攻撃も続き、15回の投下があった。掃海不能の低周波音響機雷まで使用された。第2期作戦と第3期作戦の影響で機雷による日本商船の被害は激増し、5月の機雷による沈没商船は66隻(約11万総トン)で潜水艦や航空機による損害を上回った。損傷船も31隻(約10万6千総トン)に達した。6月7日からは沖縄を基地とする海軍機PB4Y-2も参加した第4期作戦が始まり、同様の攻撃が続いた。この間、危機感を覚えた日本軍は、5月21日に陸海軍技術運用委員会に機雷専門部会を設置して、新型感応機雷の掃海技術開発に努めたが、有効な手段を見出すことができなかった。
日本軍は、潜水艦による被害も多い門司=華北航路を6月に閉鎖する一方、日本海側の諸港を拠点として、なおも朝鮮半島との航路だけは維持しようと試みた。しかし、7月9日からの第5期作戦では朝鮮半島にも本格的に攻撃が及ぶようになった。舞鶴港や新潟港、船川港、朝鮮半島の釜山港などが機雷投下を受け、特に満州からの食糧積み出し拠点だった羅津が420個を集中投下されている。計3746個の機雷が使用された。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
太平洋戦争末期にアメリカ軍が行ったこの作戦について調べました。
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